Columnコラム
2022年ノーベル物理学賞
2022年のノーベル物理学賞は,ジョン・クラウザー,アラン・アスペ,アントン・ザイリンガーの3氏に授与されました。受賞理由は「光子のもつれを使った実験によりベルの不等式の破れを立証し,また量子情報科学を開拓したことに対して」です。
私は,今年は量子コンピューター関連の受賞があるかもしれないと予想していたのですが外れでした。でも昨年10月の私のツイッターを読み返すと,アハラノフ,ベリー,アスペ,ザイリンガーの皆さんの名前を挙げていたようです。今年ならばほぼ正解でした。ちなみに,私見ではアハラノフ氏とベリー氏のお二人も有力候補です。来年以降受賞の可能性もあるかな?何をした方々だろうと思った方,ググってみてください。
さて,今年のノーベル賞の解説をしようとすると量子力学に触れなければなりません。先日この話題でサイエンスカフェを開催したのですが,2時間かけてうまく説明できたか自信がありません。このコラムで紹介するのはあきらめてノーベル賞に至った経緯の概要だけお話ししてみようと思います。
詳しいことはカリフォルニア大学バークレー校・カブリ数物連携研究機構教授の村村山斉さんが YouTubeで解説しています。ぜひご覧ください[1]。
筆者がお話したサイエンスカフェで量子もつれを説明しようとしたスライド。
猫で描いても難しいものは難しい。。。
量子力学が誕生したのは今から100年ほど前の事です。この新しい分野はそれ以前の物理学の考え方を大きく変えました。主人公はシュレディンガー,ハイゼンベルグ,ボルン,ボーアなど大学でこの分野を学ぶと真っ先に出てくる著名な物理学者たちです。少しだけ量子力学に立ち入ってみましょう。
大リーグエンジェルスの大谷選手が時速160kmの豪速球を投げます。最近はボールの速さはスピードガンで測定されてリアルタイムで表示されます。でも時速160kmというスピードはスピードガンで測っても測らなくても時速160kmです。スピードガンはボールの速さという情報を私たちに教えてくれるのですが,ボールの速さそのものはそれとは関係なく「実在」しています。量子力学の考え方はこれを大きく変えるものでした。量子力学によると,全く同じ状況(正確には状態と言います)でボールのスピード測ると測るたびに違う結果になるのです。あるときは時速155km,あるときは時速163km,,,,。何度も何度も測って平均すると時速160kmになります。もちろん野球のボールのスピードでこのようなことは起こりません。しかし原子や電子のような微小な世界ではこの性質が表れます。例えば電子の速度(正確には運動量)や位置を測るときです。「測り方が良くないのではなく自然の性質がそもそもそうなっている。予測できるのは平均と測定値のばらつき加減だけ。」これが量子力学の主張です。「実在」している値を測定によって得るというそれ以前の物理学とは考え方が異なることがイメージできるでしょうか。
このような量子力学の主張は物理学界に大きな議論を巻き起こしました。量子力学の考え方に反論をした代表的な人物が有名なアインシュタインです。アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言って量子力学を批判したという有名な逸話が残っています。アインシュタインはただ反論しただけではありません。1935年にポドルスキー,ローゼンらと量子力学の不完全さを指摘する論文を発表しました。今日,彼らの頭文字をとってEPRパラドックスと呼ばれている有名な問題です[2]。彼らは量子もつれという量子力学特有の状態を使うと,位置と運動量が実在すると主張しました。量子力学の重要な法則に,位置と運動量は同時に確定できないという「不確定性原理」があります。つまり位置と運動量が実在すると不確定性原理に反するという主張です。EPRパラドックスは量子力学に大きな課題を突きつけました。EPRパラドックスをどのように検証するか?量子論[3]と実在論の違いを検証するためにはどうすれば良いか? 簡単ではありませんでした。その検証方法が提案されたのはERPの論文から30年近く経った1964年でした。ジョン・ベルというイギリス出身の物理学者がその方法を提案しました[4]。ベルは量子もつれについて測定をしてその結果を使った計算をすると,実在論ではある値を以下になるけど量子論ではそれを超えることがあることを示しました。ベルはこれを
実在論の値<上限
という不等式で表したので,ベルの不等式と呼ばれています。
「ベルの不等式が成り立っていれば実在論」,「ベルの不等式が破れていれば量子論」です。
ザイリンガー氏は量子力学をさらに発展させる研究を行い量子情報科学という分野を開拓しました。代表的なものが量子テレポーテーションと呼ばれるものです。テレポーテーションというと「スコッティ,転送!」というカーク船長[5]の名台詞を思い出す方もいるかもしれませんがそうではありません。説明は難しいので諦めますが,一言でいうと「量子状態を離れた地点に送る」手法です。ザイリンガー氏の業績は今大きな注目を集めている量子暗号や量子コンピューターの発展に大きな影響を与えました。
20年ほど前にザイリンガー氏を広島大学へ招待してセミナーを開催していただいたことがあります。筆者も世話人の一人でした。そのころから業界では超有名人。ノーベル賞候補でした。懇親会の後,最寄りの駅まで自家用車でお送りしたことをいまでもよく覚えています。今年の同氏のノーベル賞受賞のニュースを聞いて感慨深いものがありました。
ところでクラウザー氏やアスペ氏の研究が行われていた1980年代前半は,筆者が大学で量子力学の勉強を始めた時期にあたります。すでに量子力学は教科書がいくつも出ていて確立した分野として勉強していました。まさにその頃量子力学の根本原理を検証する研究が行われていたのですが,そのようなことは知るよしもありません。結果的に量子力学の正しさが示されたのですが,教科書に書かれていることを真に受けてはいけないという例の一つかもしれませんね。
高橋 徹
広報部会長/広島大学
[1] 量子もつれ解説その1「量子力学」 , 量子もつれ解説その2「量子もつれ」
[2] アインシュタイン(Einstain),ポドルスキー(Podolsky),ローゼン(Rosen)。
[3] 実在論という言葉との対比で量子論と言っていますが量子力学と同じ意味です。
[4] 素粒子理論が専門の物理学者。欧州合同原子核研究機関(CERN)の理論部に所属していました。
[5] スタートレックに登場するUSSエンタープライズの船長です。