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ユネスコ世界遺産「韮山反射炉」に思う

ふるさと納税の返礼品(地元旅館での平日宿泊券)を利用して3月初旬に伊豆修善寺温泉を訪れた折に、ふと思いついて近くの伊豆の国市に在る韮山反射炉を見学した。現場のボランティアガイドさんの説明によると、2015年に「明治日本の産業革命遺産」のひとつとしてユネスコの世界遺産に登録された韮山反射炉の「反射炉」とは、銑鉄を溶解して優良な鉄を生産するために必要とされる1200℃超の高温を得るために、浅いドーム形になっている天井部分に熱を反射集中させる構造が、名前の由来となっている。 韮山反射炉は、1840年のアヘン戦争に危機感を抱いた韮山代官江川英龍が、海防政策の一つとして鉄砲を鋳造するための反射炉を幕府に建議し、1853年の黒船来航を受けて築造されたものと言われており、元々伊豆下田で築造が開始されたが、ペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入したため、伊豆韮山に築造場所が変更になったとのこと。 江川英龍は、Huguenin著『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』という蘭書に基づいて、高さ15.6mの連双2基(合計4炉)の反射炉を設計して築造を開始、英龍亡きあとは息子の江川英俊が引き継いで1857年に完成させたそうです。炉体は、外側が伊豆の特産品である伊豆石(緑色凝灰岩質石材)の組積造、内部は伊豆天城山産出の土で焼かれた耐火煉瓦のアーチ積、煙突も耐火煉瓦の組積造となっている。反射炉の周りには、古川と呼ばれる川の水を利用して水車を回し、大砲の砲身の穴加工を行う錐台や付属品の細工小屋などが立ち並ぶ大砲製造工場だったと言われている。この反射炉では、鋳鉄製18ポンドカノン砲4門のほか、多数の青銅製大砲が製造され、そのうちの数門は江川英龍が同時期に築造を命じられていた品川のお台場に設置されたお蔭で、黒船は江戸湾内奥には侵入しなかったという件が地元ボランティア氏の自慢のひとつ。 もうひとつのご自慢は、なんといっても地元の英雄江川英龍その人。35歳で代官職を継ぐと、施政の公正につとめ、二宮尊徳を招いて農地改良を行い、領民への種痘接種を推進するなど善政をしいたことから、領民は「世直し江川大明神」と呼んで敬愛したという。江川英龍は、長崎に赴き近代砲術を学び高島流砲術を取り入れた後には西洋砲術の普及に努め、全国の藩士に教育するため1842年に開講した「江川塾」では、佐久間象山、大鳥圭介、橋本佐内、桂小五郎(木戸孝允)、大山巌、榎本武揚など錚々たる人物が門下生となり、門弟は4千名以上だったとされている。江戸幕府の天領(直轄領)を預かる一代官にもかかわらず、時の国際情勢を読み、幕府に国防(海防)を献策する発想力、最新の知識と技術を取り入れて、自ら独学で反射炉を設計・築造する実行力、そして志を同じくする有能な人材を育成するリーダーシップなど、江川英龍が幕末の隠れた英雄であることは間違いない。 韮山反射炉は、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産として世界文化遺産に登録されたのだが、日本社会への貢献度でいえば、反射炉の建設を契機に江川英龍が成し遂げた人材育成のほうが、はるかに大きいのではないだろうか。江川家の江戸屋敷が幕府瓦解後、自伝で江川英龍を英雄として取り上げた福沢諭吉に払い下げられて「慶応義塾舎」になったことも、偶然の産物とは思われない。韮山反射炉が産んだのは、わずかばかりの大砲だけではなく、幾多の有為な人材であり、後世の日本の国力増進に多大な貢献を成したと思われてならない。 AAAも協力・支援している「国際リニアコライダー(ILC)」日本誘致が実現すれば、東北の地に国際研究都市が形成され、優れた人材を輩出し教育できるはずである。本プロジェクトに関わる皆が英雄となって、ILCが後世の世界遺産になることを願うばかりである。 余談だが、韮山反射炉の在る場所は、もうひとつの世界遺産である富士山を同時に眺めることができる絶好の観光スポットになっている。

(馬画人)

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