Columnコラム
Frascati Lab
去年、私にとっての大きなイベントは、ひとりでヨーロッパ旅行に出かけたことです。イタリアのパドヴァ では、ガリレオが教鞭を執ったという大学もちょっぴり訪れました。
その時せっかく行くのだからと、山本均先生がフラスカティ研究所の見学をアレンジしてくださいました。イタリアといえば、物理学者のエンリコ・フェルミやカルロ・ルビアの生まれた国でもあります。
フィレンツェでバレエの友達と別れました。ユーロスターでローマまで行き、そこからローカル線に乗り換えると、白ワインで有名なフラスカティまで30分ほどです。
びっくりしたのが、ローマテルミニ駅に降り立った時。さまざまな人種が行き交っていて、パンクっぽいの、ジプシー系やアフリカファッションまであって、北イタリアとは違ったやや荒れた雰囲気に、私は固まってしまいました。ひとりでカフェに入る勇気もなく、乗り換えの一時間がまるで砂時計を眺めているように長く感じられました。
夜は、ホテルでゆっくり食事を取ろうと思って楽しみにしていました。午後6時になったのでレストランに行ったところ、今日はもうクローズしましたとのこと。日本のようにそばにコンビニがあるはずもないので、フロントで「どこか近くに食事ができるところはありませんか。」と聞いたところ、あるとは思うけれど、自分は行ったことはない、とのすげない返事。夜でおまけに雨が降っていました。おそるおそるホテルの外に出てみたものの、どこにも入ることができず、なんとかピッツアと飲み物だけ買って足早に帰りました。
翌朝、時間よりも早く Bianco 先生が迎えに来てくださいました。私はイタリア語ができないし、つたない英語で何とかなるのか心配でした。ですが、お会いした瞬間、だいじょうぶ!と思ってしまいました。
フラスカティ研究所 は、正式には Laboratori Nazionali di Frascati dell’INFN という国立の研究所です。日本の高エネルギー加速器研究機構(KEK)のような車で移動する大きな施設を想像していましたが、小ぢんまりした研究所でした。所内の道路にマリー・キュリーとかファインマンなど有名人の名前が付けられています。さすが遊び心がありますね。
Bianco 先生は、フラスカティ研究所 の教授でした。ちっともエラぶったところがなく、日本から見学に来た研究者でない私を、付きっきりで案内してくださいました。
ここは、円形の加速器を初めて創り出した研究所としても有名です。1960年に Bruno Touschek が考案しました。CERN の大型加速器(LHC)は、全周27キロメートルと東京の山手線と同じくらいの大きさがありますが、AdA(アーダ)と呼ばれる最初のビーム衝突型の加速器は、2、3人が手を広げて抱えられるくらいの小さなもので、透明なピラミッド型の四角錐の中に収めてありました。
一番驚いたのは、実験機器の色です。粒子検出器の色が、フーシャピンクと鮮やかな黄緑色のコンビネーションだなんて、日本では考えられません。その色合いに思わず見惚れてしまいました。研究所のあちこちで鮮やかな色彩を目にすることができました。イタリア人の美的感覚は、素晴らしいですね。使われなくなった加速器の部品を使って作った現代アートのオブジェもありました。
実験施設ばかりいろいろ見せていただけたのには訳があって、山本先生が、この人はあまり英語ができないから、説明よりはモノを見せてあげて、と英語でメールをしてくださっていたからでした。(そのメールを、今後の語学学習の励みに永久保存しておこうと思ったのですが、iPhone の OS をアップデートした際になぜか消えて・・・しまったのです。)
東日本大震災が起こった時、海外からすぐにメールをくださったのは、Bianco 先生でした。自分に何かできることはないかと尋ね、イタリアと日本は同じ地震帯に乗っかっているのだから他人事ではない、と親身になって心配してくださいました。ありがたかったです。
半日でしたが、フラスカティ研究所 を見学するという幸運に恵まれたのは、もちろん長い間かかって人間関係を築いてこられた山本先生のおかげです。それはとりもなおさず、4年半やっていた「物理屋往復書簡」というブログのおかげです。
日本人が、長年にわたり世界で素粒子物理学をリードしてきたため、海外の研究所でも日本人に対する尊敬の念が高いのでしょう。私はその恩恵にあずかったのです。
高いレートで両替をしてしまう、バスに乗って違反料金を払う、途中で充電器を失くす・・・失敗もいろいろして周りをハラハラさせましたが、一生思い出に残る経験ができました。フラスカティ研究所に行けたことを心から感謝しています。
天満 ふさこ