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欧米はどのようにして高エネルギー物理学の方針を決めているのか

いまワシントン DC の空港でこの原稿を書いています。昨日までの2日間、米国エネルギー省の高エネルギー物理諮問委員会(HEPAP)に出席しました。これは米国の素粒子物理学の方針に関してエネルギー省と国立科学基金に助言する委員会で、北米の大学や研究所からの約20名にヨーロッパとアジアからそれぞれ1名を加えたメンバーからなり、年に2回ほど開かれます。最終決定権はもちろん米国政府にありますが、米国政府は HEPAP の助言を尊重するため、HEPAP はこれまで米国の素粒子物理学の方針を実質上決定してきました。現在の方針は2008年に発表された答申に依っています。これは HEPAP の小委員会が様々なワークショップを経てまとめたもので、極めて簡単に言うと「素粒子物理には、エネルギー、強度、宇宙の3つのフロンティアがあり、米国がリードする機会は強度にある。」というものです。ここで、エネルギー・フロンティアは LHC や ILC のように巨大加速器でエネルギーの最先端をめざすもの、強度とはビーム強度のことでニュートリノビームやミューオンビームを使った実験や B ファクトリーなど、そして宇宙は暗黒物質や暗黒エネルギー関するものなどです。これは、それまでエネルギー・フロンティアに重点をおいてきた方針からの大きな転換でした。ちなみに「B ファクトリー」は、イタリアではなく、日本の B ファクトリー実験に参加することを意味します。

問題は果たして研究者たちがこの方針転換についてくるかですが、そのためにエネルギー省は「強度フロンティア会議」なるものを昨年ワシントン DC 近郊で開催しました。その趣旨は「強度フロンティアのアイデア求む。」と「お前たちは強度フロンティアに興味があるか?」というものでしたが、3日間の会議は約500人の参加者でにぎわい、予想以上の成功を収めたようで、どうやら米国の素粒子物理研究者は大挙して強度フロンティアに流れ込みそうな勢いです。このあとは、研究者たちの組織である米国物理学会の素粒子部門が受け継ぎます。今年の10月にはシカゴ郊外にあるフェルミ国立研究所で研究者計画会議なるものが開催され、特に強度フロンティアでどのような研究を進めて行くかの具体化が進む予定です。さらに来年の夏にはロッキー山脈の避暑地スノーマスに研究者が3週間ほど集まって計画の具体化について掘り下げた議論を行うことになっています。ともかく、強度フロンティアに関してはほぼ研究者たちの大まかなコンセンサスが形成されたようです。しかし、米国はエネルギー・フロンティアを無視しているかというと、エネルギー省高エネルギー物理室長のジム・ジーグリストはそうではないと言っています。「LHC には本格的に参加していくし、もし ILC がどこかに出来れば話は別である」と。ただし、ILC に大金をつぎ込むとなると強度フロンティアで行っているような米国内でのコンセンサス形成が必要だと言います。ともあれ、米国がエネルギー・フロンティアから大きく後退したことは否定出来ず、今回の HEPAP 会議でも「本当にそれでいいのか」という懸念がいくつか表明されました。

米国では方針決定が大体このようになされていますが、印象に残るのは研究者たちのコンセンサスがかなり組織的に形成されていることと、そしてそのプロセスに政府が深く関わっていることです。後者の理由として、政府と研究者の間がスムースに連続的につながっていることが挙げられます。例えばエネルギー省高エネルギー物理室長のジム・ジーグリストはこれまで現役で素粒子実験に携わってきた優秀な物理学者で、そのような物理学者の「政府役人」が高エネルギー物理だけで常に2~3人いて、政府と研究者の橋渡し役をしています。この構造は政府と研究者の間のコミュニケーションに大きく役立っていると言ってよいでしょう。また、HEPAP 会議は誰でも傍聴出来るオープンなものになっています。これは民主主義的ですが、微妙な課題についてざっくばらんな議論がしにくいという難点も含んでいます。

ヨーロッパの場合の特徴は、ひとことで言えば CERN 研究所の圧倒的な存在です。メンバー国は CERN 研究所に資金を拠出しますが、その使い方に関する決定権は CERN 研究所が握っています。それゆえ CERN 研究所自身が一つの国のようなもので、結果絶大な権力を持つことになります。ヨーロッパには他にドイツの DESY 研究所やイタリアのフラスカチ研究所などがありますが、CERN を無視して動くことは出来ません。具体的には CERN の方針は CERN 評議会によって議論されますが、それは CERN だけでなく、ヨーロッパ全体の素粒子物理の方針にも関わっています。具体的には CERN 評議会の下にヨーロッパ戦略グループとその準備グループがあり、5~6年に一度ヨーロッパ戦略を策定しますが、次回は2013年1月の予定です。今回の HEPAP では準備グループのメンバー(米国人)が報告をしました。ヨーロッパ戦略策定の議論へのインプットは広くヨーロッパ以外からも寄せられていますが、LHC、加速器開発、リニアコライダー, ニュートリノ、宇宙物理、フレーバー物理などそれぞれに関する委員会が設置され、議論が進んでいます。今年の9月にはポーランドでヨーロッパ戦略のためのワークショップが開催され、それぞれの分野の研究者はそのための準備で今躍起になっています。来年の1月にはヨーロッパ戦略グループが一週間ほど缶詰になって答申のドラフトを書きます。そして、その答申の内容は今後数年間のヨーロッパの素粒子物理の方向に大きな影響を持つことになるでしょう。特筆すべきは、CERN 評議会の各国からの代表には学者が多く含まれ、ヨーロッパ戦略の策定自身は原則研究者たちによる活動だと言うことです。

 

抛執斎

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