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ヒッグス粒子の論文まつわる逸話

 

10月19日は,1964年にピーター・ヒッグス博士の有名な論文“Broken Symmetry and the Mass of Gauge Bosons(破れた対称性とゲージボソンの質量)“が,アメリカの論文誌フィジカカル・レビュー・レターズ誌に掲載された日です。2012年にCERNの大型加速器LHCでの実験で発見された,質量の源と言われるヒッグス粒子の存在を指摘した論文です。 この論文の公表について面白い逸話があります。いろいろなとこで書かれたりしていて結構知られているですが,そのことにについてヒッグス博士ご自身が語られた貴重な映像があります。2020年2月8日にILC推進国際シンポジウム「ヒッグス粒子とILC」を開催しました。残念ながらヒッグス博士ご自身に来ていただくことはかないませんでしたが,シンポジウムのために長時間にわたってインタビューに応じていただくことができました。ヒッグス粒子のアイディアが生まれた背景やいきさつが提唱者ご自身によって語られている大変貴重な動画です。最初の部分ではそのころのヒッグス博士のお立場やヒッグス粒子のアイディアにいたった当時の様子が生き生きと語れています(~06:20)[1]。

さて,その動画に語られているヒッグス粒子論文にまつわるお話です。研究者は論文を書くとそれを専門誌(論文誌か雑誌とよびます)に投稿します。論文の投稿を受けた雑誌の編集者は近隣分野の研究者(査読者)に読んでもらい掲載に値する内容かどうか意見をもらいます。

ヒッグス博士は最初,論文をヨーロッパの雑誌フィジクス・レターズに投稿したそうです(06:20)。ところがその論文の査読者は掲載不可との判断を下しました(詳しい経緯は動画をご覧ください)。論文誌の対応に疑問を感じた博士は,論文を少し改訂してアメリカの論文誌フィジカル・レビュー・レターズ再度投稿しました(08:10)。1964年8月31日のことです。すると今度はすぐに掲載決定。しかも公表されたばかりの,アングレール,ブルー博士の論文についてコメントを促す意見までついていたのです。(アングレール,ブルー博士の論文の公表は1964年8月31日。ヒッグス博士の論文がフィジカル・レビュー・レターズ誌に届いたその日でした。論文のタイトルは,“Broken Symmetry and the Mass of Gauge Vector Mesons(破れた対称性とベクトル中間子の質量)”です。文頭のヒッグス博士の論文のタイトルと比べて見てください。とてもよく似ています。このこともあって,単にヒッグス粒子ではなく,ブルー・アングレール・ヒッグス粒子(頭文字をとってBEH粒子)と呼ぶこともあります。

しばらくして,ヒッグス博士の記憶によると1984年。ヒッグス博士は南部陽一郎博士に会う機会がありました。そのときに1964年の論文の査読者が南部博士だったと知ったそうです。南部博士は1961年にヒッグス粒子のもとになる考え方をすでに公表していました。南部博士はこの頃ご家族の病気ために研究に集中することができなかったそうです。ヒッグス博士はインタビューの中で,「もし南部博士のご家族が病気でなかったら(ヒッグス粒子に関する仕事は南部博士がやってしまって)自分は有名にはなっていなかっただろう」とおっしゃっています(09:50)。改めて南部陽一郎博士のすごさを垣間見る逸話です。是非動画でご覧ください[2]。

高橋 徹

広島大学/AAA広報部会長

[1] (分:秒)は該当するインタビュー動画の場所を示しています。文中その他も同様です。

[2] 南部博士の誕生100周年記念webサイトがこちらからご覧になれます。

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