2013年5月11日

ヒッグスと茶道

 

 皆さんご存知と思いますが、昨年ジュネーブ郊外のCERN研究所でヒッグス粒子が発見されました。素粒子の標準理論の最後の未発見粒子が見つかった、しかもその粒子はすべての素粒子の質量の源であるということで大騒ぎとなりました。その質量の生み出し方というのが何とも奇妙で、なかなか説明が難しいのですが、だいたい次のようなものです。

 宇宙はビッグパンという大爆発で始まったとされていますが、その直後の非常に熱い時期にすべての素粒子は質量がゼロでした。そしてだんだんと宇宙の温度が下がってくると、ある時点で宇宙全体がヒッグス粒子の場で満たされます。宇宙全体が凍り付いてヒッグス粒子の氷になったようなものです。するとそれまで質量ゼロで動き回っていたいろんな素粒子はこのヒッグス粒子の氷の中を動き回らなければなりませんが、氷から抵抗を受けて動きにくくなります。力を加えたときの動きにくさというのは即ち「慣性」で、粒子が質量を持っているように見えてくるのです。そして、ヒッグス粒子の氷と強く反応する粒子ほど動きにくく、結果その粒子は大きな質量を得ることになります。

 この考えが正しければ、ヒッグス粒子の氷は現在も宇宙を満たしているはずで、我々の周りの「そこ」にもあるはずです。では、どうしてそれが我々に感じられないのか?実は素粒子の理論ではこのヒッグス粒子の氷自体を宇宙の真空、つまりなにもない状態、と定義してしまうのです。「そんことをしていいのか」「そんな馬鹿な」と思われるかもしれませんが、似たような考え方は実は他の分野にもあります。

 「宇宙をヒッグス粒子の場がビッシリ満たしているのが宇宙の真空」というのは「在ることは無いこと、無いことは在ること」ということになりますが、これは例えば仏教思想の根本にある考えかたです。般若心経に「色即是空、空即是色」という言葉があります。これはまさに直訳で「在ることは無いこと、無いことは在ること」という意味です。また、禅語にも似たような意味の表現はたくさん出て来ます。「無」という禅語も「心を無にすることですべてが見えてくる」などと解釈出来ますが、要するに「無」は「有」に繋がるということになる。他にも「無一物中無尽蔵」(何も無いところに無限の存在がある),「実相無相微妙法門」(存在と無は微妙に転換しうる、それが仏法の根本である)、「本来無一物」(あるように見えても実は存在しない、その逆も真、それを理解することで解脱が得られる)などたくさんあります。
 では、茶道との関係はというと、歴史的に茶道は禅と共にありました。「茶禅一味」とよく言われる所以ですが、実際、山上宗二(やまのうえのそうじ)という利休の直弟子はその秘伝書の中で「茶の湯は禅宗よりいでたるによりて僧の行いを専らにす」と言っています。いまではその伝統はかなり薄らいでしまいましたが、それでも例えば表千家ではお茶の先生の資格をとると「宗名」というのを家元からいただきますが、これは歴史的には禅僧となることを意味します。利休の宗名は「宗易」でした。ちなみに私の宗名は「宗顕」で「顕」は「ありのままがあらわれること」を表します。

 茶道具にも、特に侘びたもののなかには宇宙を思わせるものがあります。楽茶碗の代表作の一つと言われる「大黒」は、そのうち国宝になるのではとささやかれているものですが、その少し茶色がかった黒い肌にぷつぷつと景色が浮かび上がるのを見ると、なんだかビッグバン直後の宇宙をみているような気がします。当代楽家当主の楽吉左衛門はこの茶碗について「手の中に静まりゆく宇宙空間」と表現していますが全く同感です。私自身はこのような銘碗でお茶を点てることはとてもかないませんが、それでもなんとか気に入る黒楽茶碗を探し当てて、先の宮城県の財務長官が所持していたというので「財務」と名付けました。平成23年12月11日には、研究室の学生や事務員を引き連れて仙台で行われた年忘れ茶会の席の一つを受け持ち、「宇宙」というテーマでお茶会をしましたが、それはCERNでヒッグス粒子の兆候が発表される2日前、使った主茶碗は「財務」、床には法隆寺127世管長桝田秀山の「無」が掛かっていました。


2013年5月

抛執斎